311から7年経って、PRの仕事を肯定できるようになったという話


株式会社パブリックグッドの森下です。

BuzzFeed NEWS石戸諭記者の手によるすごい記事を読んで触発されたので、
「東日本大震災から7年経って、私は、気が付いたら、
自分のPRという仕事を肯定できるようになってましたよ」という話を書きます。

 

▼【あの日から7年】福島のリアルを伝え続けたテレビマンは、なぜ村職員になったのか?
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/makoto-omori

 

・これは、テレビユー福島の報道部長を務め、現在は
福島県飯館村 生涯学習課生涯学習係主査である大森真さんを取り上げた記事です。

 

・テレビマンを辞めて飯館村職員になったっという”身の投じ方”が凄いと言いたいのではありません。
大森さんの、『報道とはどうあるべきか』という命題に対する考量と冷静さ、
取り組み方の覚悟の深さ・真摯さが、もう本当に凄まじいのです。

 

・今日2018年3月12日は、3.11の翌日でもありますが、
2013年3月12日に亡くなられた、映画評論家・梅本洋一氏の5回目の命日でもあります。

 

・私は大学時代、映画評論家の梅本氏の講義を取っていましたが、今でも残っている言葉のひとつに
『映画監督とは、映画を撮る人のことではない。映画とは何かを考え続けている人間のことだ』
というものがあります。

 

・私は、PRマンなので、「PRとは何なんだろう」を考えて、書きました。良かったら読んでください。

 

 

3月10日まで、「3.11に関しては、私自身があんまり語ったり、
強い関心を露わにしたりするもんでもないよなぁ」、と思ってました。

 

東北にゆかりもないし、災害に遭った経験もないし。

 

プライベートでちょっと陸前高田の瓦礫を片付けにいったり、
2011年のARABAKI ROCK FES(*1)に行ったり、
仕事では『サンクスヘルメットプロジェクト(*2)』のプランニングに携わったりはしたけれど、
もうほんと、ただそれだけなので、
なんというか、「私が様々なことを語るにはおこがましい」という気持ちが拭いきれませんでした。
それに、3.11以外にだって個別的なものも含めると、やり切れないことは世の中ゴマンとあるのに、
3.11だけを取り出して語ることには、どこかしら抵抗感がありました。

 

(*1)ARABAKI ROCK FES 2011
http://www.asahi.com/shinsai_fukkou/7nen/arabaki/?iref=sp_rellink

(*2)『サンクスヘルメットプロジェクト』
弊社パブリックグッドも、プランニングのお手伝いをさせて頂きました。
福島県内の小中学校の皆さんが書いた感謝のメッセージシールの貼られたヘルメットを、
除染作業員さんに贈呈するプロジェクトで、2014年10月12日に
ビッグパレットふくしまで贈呈式が開催されました。
http://josen.env.go.jp/tekiseika/pdf/150422_04_06.pdf

 

ただやっぱり、3月11日当日になってみれば、目に入るし、
気になるし、思い出すし、話したくなるものです。
(とりわけ、Buzzfeed News石戸諭記者の記事の数々は、どれも、
膨大な考量と、冷静さ・感受性・敬意・配慮を持ちながら課題に踏み込んだものばかりで、
何度も何度も読み返しました。)

 

 

 

 

…といったようなことを、岩手県出身で、サンクスヘルメットプロジェクトにも共に携わった
弊社の菅原賢一に少し話したところ、

 

『震災を語るのは資格は要らないけど、メディアに任せておけば良いのさ。記憶は薄れていくもんだ。
震災があってから7年、自分がどんな時間を過ごしたか、震災に関連しても、関連しなくても、
311がそんなことを考える日になればいいとおれは思うよ』
と返ってきました。

 

そう言われて初めて考えたのですが、
私に7年で起きた変化は「PRという自分の仕事を肯定できるようになっている」ことかなぁと思いました。

 

 

 

 

2011年の春は、「PRのスキルなんてなんっっの役にも立たん!!」と無力感しかなかったもんでした。

 
当時勤めていたPR会社から自宅に向かう帰途、
節電のため電灯の付いてない中央線に揺られ、
商品の並んでいないスーパーの惣菜コーナーの前に立ちながら、そう思っていました。

 
建物が直せるでもない。インフラに詳しいでもない。
医療の心得があるでもない。政治への働きかけに詳しいわけでもない。
実学的な世界に進まなかったことを、恥じるような、悔やむような気持ちがありました。

 

 

 

 

でも、あれから7年が経ち、
2018年の今は、PRという仕事を全肯定できるようになっていると、そう思います。

 

むしろ、コミュニケーションの仕事は、
何かが起こった後、時間が経って複雑化して難しい局面になればなるほど、
必要性が高まるのではないかとも感じています。

 

 

 

 

この7年の間には、
自分の作るPRのプランニングの癖というか、好み?のようなものの輪郭が、ぼんやり出来てきた気もします。

 

私は、
特定の振る舞いを世の中の誰かに強制したり、
誰かが自分の考えや悩みを口にしづらい状況を招いたり、
緊張やストレスを煽ったりするようなことだけはしない』を、
あらゆる案件で、ベースに置いて発想するようになりました。

 

超大上段に構えた物言いをするならば、私は、
PRはそうあって欲しい・そうあるべきだと考えているのだと思います。

 

 

 

 

元々そういう嗜好だったのかもしれませんが、
(株)パブリックグッドという今の会社を2013年に作って以降は、
出来うる限り、そういうアイディアだけを提案したいと思ってきました
(弊社全員じゃなくて、あくまでこれは私個人の主義・嗜好です)。

 

また、実際そういう風にしてこれたと思っています
(それが出来たのは、私でなく、そう出来る環境を保ち続けてくれた会社の仲間のおかげです)。

 

 

 

 

弊社はマーケティングPRの代理店で、ざっくりひと言で言ってしまうと、
クライアントさんの商品・サービスを、
もっと知ってもらったり、理解してもらったり、気に入ってもらったりするには、
どうしたらいいか考えて、そして実施する仕事です。

 

その「どうしたらいいか」を考える時にも、
「知ってもらうため」の活動を実施する時にも(それこそ、リリースの文章を書く際の、
一単語一単語のチョイスにおいても)、このことに気を付けるようにしていると、振り返って思いました。

 

 

 

 

そういう風に仕事を日々ひとつひとつ重ねながら、
また並行して、震災だけでなく様々な社会状況・社会構造の変化に触れ月日を過ごすうち、
この両軸によって、コミュニケーションという自分の仕事を肯定するようになっていました。

 

若かった27歳のメディアプロモーターは、気付けば
そういう34歳のPRプランナー兼メディアプロモーターになっておりました。
なんか、そんな感じです。

 

 

 

 

震災なんかなくても、こんな風になっていたような気もします。

 

でも、2011年の3月11日以降しばらく、日本国内には
『特定の振る舞いを世の中の誰かに強制したり、
誰かが自分の考えや悩みを口にしづらい状況を招いたり、
緊張やストレスを煽ったりする』という空気が、極めて濃かったとも記憶していますので、
この情報環境が、今の私のプランニングの傾向をより強くしたのではないかと思っています。

 

 

 

 

弊社はパブリックグッドという「いかにも」な名前ですが、
社会貢献性の高い案件ばかりをやっているわけではありません。
マーケティングPRの会社です。

 

でもそこに、公共性や、自分がどんな社会を作りたいかの想いを込めるための「やりよう」はあるし、
守りたい点だと思っています。

 

ただの喩え話ですが、例えば、もしも「働き方改革・女性活躍」というお題が来たら、私は、
『女性にも男性にも、一つだけの働き方・生き方を強いているかのようなPRになってないか』
『専業主婦・主夫という生き方を否定してはいないかどうか』etc…あらゆる面において、
常に自分を監査しながら、誰かを不幸せにすることがないように、配慮を重ねて情報発信したいです。

 

○○なんて言っちゃいけないんじゃないか、という空気に発展しかねないプランは、出さない。

(少し話が逸れますが、神戸出身のテレビディレクター、岡宗秀吾氏の阪神大震災体験談『あの日、僕はホテルで3Pをしていた』は、そういう意味で、本当にお気に入りです。非日常がもたらした高揚感やしょーもなさを、何一つを否定しない談話は、最高に笑えて泣けます。『そんな話は不謹慎だ、神妙に向き合え』『あんな不幸なことがあったのに、楽しいなんて気持ちになっちゃいけないんじゃないか』という、振るまいの強制や封殺・同調圧力からは一線を画す、名作談話です。)

▼「あの日、僕はホテルで3Pしていた」阪神淡路大震災から16年、岡宗秀吾の体験談[YouTube]
https://www.youtube.com/watch?v=5DI094g2oY0

(※上記のタイトルにびっくりして引いてしまった方は、↓のblogに少しだけ目を通してみてください)
▼てれびのスキマ『その街の岡宗秀吾』
http://littleboy.hatenablog.com/entry/20110116/p1

 

 

 

 

こんな長々とした、鬱陶しい”自己紹介”を書こうと思ったのは、
繰り返しになりますが、冒頭紹介した飯館村の大森真さんの記事の中に具に描かれていた、
大森さんの、「報道とはどうあるべきか」という命題に対する考量の深さと覚悟に、心打たれたからです。

 

私は大学時代に、5年前の今日亡くなられた、映画評論家の故・梅本洋一氏の講義を受けたことがあります。

 

梅本氏の言葉で今でも残っていることのひとつは、
映画監督とは、映画を撮る人のことではない。映画とは何かを考え続けて、やっている人間のことだ。
文学者とは小説を書く人のことじゃない。文学とは何かを考え抜いている人間のことだ』。

 

細かいニュアンスは違っているかもしれませんが、こういったことをおっしゃられていました。

 

私はPRパーソンなので、PRとは何かについて、考え続けたいと思っています。

 

 

 

 

最後に、2011年3月11日の東日本大地震で亡くなられた方々と、2013年3月12日に亡くなられた映画評論家 故・梅本洋一氏のご冥福を心からお祈りします。

 

2018年3月12日
パブリックグッド 森下果苗

 

 

 

●サンクスヘルメット贈呈式 | 2014年10月12日●

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


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