夏休み読書感想文:上野千鶴子×鈴木涼美『往復書簡 限界から始まる』


ビジネス書ではないのですが、ここ数年間の読んだ本の中で、群を抜いて傑作だったので、夏休みの読書感想文として残します。

本作は「小説幻冬」という雑誌に1年間、計12回にわたって掲載された書簡連載です。書き手は、日本のフェミニズム界の巨人で社会学者・東大名誉教授の上野千鶴子氏と、慶應大学卒業後、東大大学院に進学する傍らキャバ嬢やAV女優として活動し、その過去をあえて公言することなく(聞かれなければ話す必要がないので)日本経済新聞の記者を勤めていたが、元カレがやっかみから経歴を週刊誌に暴露する相前後に退職、現在は作家として活躍する鈴木涼美氏の二名で、表題の「限界から始まる」は鈴木氏が、各12回の書簡のテーマは上野氏がそれぞれ考案したようです。

わたしはもともと鈴木氏のファンですが、彼女の魅力は、社会学者として研究(観察?)対象の面白さと、フェアで独特な視点と、達観めいた気だるい文章と、特に女子に向ける明晰でありながら曖昧な優しさが、一連の作品群に通底しているところにあります。

本作は数多くの示唆に富むのですが、この感想文では、わたしが一番惹かれた、もっと言うと、わたし自身が断罪された気分になった1点に絞って書きます。それは、上野氏が初回の書簡で提起した「構造と主体のディレンマ」という点です。引用してみましょう。

社会学に構造か主体か、というディレンマがあることは、ご存じですね。主体が個人として「自己決定」を主張すればするほど、構造は免責されます。構造的劣位にあるものが、その劣位を逆手にとって構造から搾取することは、短期的には成り立ちますが、長期的には構造を再生産する結果になることは、小笠原祐子さんの『OLたちの<レジスタンス>』(中央公論社、1998年)が雄弁に語っています。主体は構造を一瞬超えることもできるでしょうが、構造の圧力のほうが、主体よりも圧倒的強いことを否定することはできません。

少し難しい文章ですね。

わたしが冒頭に書いた鈴木氏の「フェア」という視点は、上野氏の言う「自己決定」に由来する立場です。鈴木氏は一連の著作群の中で、「まあ、男は総じてくそだけど、女も自分の商品価値を自覚して、得をしているのだからどっちもどっちよね」という主張をしばしば展開します。例えば、彼女のデビュー作で、修士論文が書籍となった『「AV女優」の社会学』には副題として「なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか」とつけられていますが、乱暴に要約すればそれは「自らの選択でAVに出演している」ということのAV女優自身の表明で、それは鈴木作品群に通底する「女も自分の商品価値を自覚して、得をしている」という論旨と近いところにあります。『往復書簡』から引用します。

なぜ「AV女優」が外から見ると過剰に「主体的」に見えるのかを書いた『「AV女優」の社会学』は今読むととても稚拙で粗いのは反省しますが、修論を書いていた時したかったことはまさに、被害報告でない形で搾取の構造と男女の共犯関係を、どこかに仮想敵を作らずに描き出せないか、という挑戦でした。「強制」か「自由意志」かという枠組みでしか語られないことに強く違和感があり、またどちらもしっくりこないと思っていました。

鈴木氏はこの『往復書簡』の中でたびたび、女性が「被害者」「弱者」であると主張することへの違和感や抵抗感を書いていますが、これは「男女の共犯関係」という言葉、つまり、「どっちもどっちだろう」というスタンスに根差しています。わたしが鈴木氏の作品に惹かれる「フェア」という視点はまさにここにあるわけですが、上野氏は「自己決定」を主張すればするほど、構造は免責されます」と説きます。どういうことでしょうか。

上野氏は、女性は商品として価値があるという構造自体を作り上げたのはそもそも男性であるという前提を重視します。その中で「構造的劣位にあるものが、その劣位を逆手にとって構造から搾取することは、短期的には成り立ちますが、長期的には構造を再生産する結果になる」、例えば、女性が自分自身の意思でAV女優として活動して、会社員などでは到底得られない高額な対価をもらうことは短期的には可能ですが、そうした行為が、「女性は商品として価値がある」という構造そのものを結果的により強固し、結局、おおもとの構造自体が問題であるという論点が提起されずに終わってしまう、という指摘です。

少し大げさに書けば、男性であるわたしが鈴木氏の著作を読んで「フェアだなー」と惹かれていた根底には、彼女の「どっちもどっち」というスタンスが、結局のところ男性優位につくられた構造を免責してくれるからという、自己保身が潜んでいたからかもしれない、ということになります。鈴木氏自身も、こうした「構造の再生産」に加担して可能性については自覚があり、『往復書簡』の中で次のように述べています。

他者にそのような態度を強要した覚えはありませんが、先月いただいたお手紙にありましたように「『弱者』であることがガマンできない」女性がいかに男性に都合が良いかを考えれば、私がそうであることが、搾取の構造を再生産し続ける可能性を無視できず、これは私の大きな悩みの一つです。
母の懸念は、私の「夜職女」として消費されることに無頓着なところが、ゆくゆくはこのように、自分の尊厳ではなく、自分以外の女性を傷つけるために誰かに利用されることにあったのかもしれないと最近は思うのです。

この構造と主体の問題は、フェミニズムや社会学といった限定的な場面に起こるだけのものではなく、わたしたちの日常でも多く発生するジレンマです。あんまし親しくない人たちとの飲み会で愛想笑いを連発しているときにふと「おれ、何やってるんだろう」と気づくことも構造と主体のジレンマですし、日々、売上目標に追われる会社にいながら転職を考えだすのも構造と主体の問題でしょう。わたしたちのような商品を持たない代理店業がクライアントからの要望に100%応えようとしたときに感じるような色んな矛盾や葛藤も構造と主体の問題と言えるでしょう。要は、私たち個人が所属する構造の中で、個人ではどうしようもないような矛盾や問題に気づいたとき、どうするのかという問いです。

わたしはこの構造と主体のジレンマの中で、上野氏のように構造そのものを構築しなおそうとする革命家も好きですし、鈴木氏のように構造の中で懸命に傷を避ける方法を模索する処世家も好きです。何より、上野氏の指摘するシニシズムにもニヒリズムにも与しない姿勢に強く賛同します。

性が経済的対価を伴って市場で交換されること…市場というのはそんなもんだろう?ありとあらゆるものを商品として飲み尽くしていくのが資本主義だろう?というニヒリズムにわたしは与しません。
あなたの世代にあるのは(といってよいかどうか、わかりませんが)、ポスト均等法世代以降のネオリベラリズムの内面化と、90年代以降の性の商品化の怒涛の中で思春期を過ごした結果のシニシズムではないでしょうか。そして政治的シニシズムがそうであったように、シニシズムは結局、何も生み出しません。

構造と主体のジレンマに気づくこと自体が稀なのかもしれませんが、平時よりもいまのコロナ禍のほうが気づきやすいようにわたしは思います。その時、ニヒリズムやシニシズムに支配されず、主体として自分が何を考え、どういう行動をとるか、哲学者のニーチェが提起した超人にいかに近づくことができるか、本作はそんな問いを投げかけてくれます。

わたし自身はビジネスパーソンで経営者という実務家なので、鈴木氏のような、いまの構造を踏まえて、どう自分のなしたいことを、流血を最小限に食い止めながら実現していくか、という立場に共感を覚えます。そして、ある意味で魅力的ですらあるシニシズムやニヒリズムは、結局のところ何も生まないのだという上野氏の指摘を深く心に刻みたいと思います。

そしてここに長々と書いた感想は、なんと往復書簡の1回目から2回目だけのやり取りという濃密さ、鋭利さです。以下に、12回のテーマを挙げておきます。あんまし外出できない夏休み、ぜひお手に取ってみてください。なお、鈴木氏のこの作品を読んでから『往復書簡』に入ったほうがより理解が深まるというわたしなりのおススメもありますので、ご興味のある方は個別にお声がけくださいませ。ちなみに少し前に、出版記念のトークイベントも拝聴しましたが、その時がお二人、ほぼ初めてのご対面と聞き、宛先のある文章というものは、対面経験の有無を超越するのかとのけぞるほど驚きました。

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